グレン・ハモンド・カーチス

グレン・ハモンド・カーチス(1878年5月21日ー1930年7月23日)はニューヨークのハモンドボートに生まれました。

彼はアメリカの航空関連ののパイオニアであり、アメリカの航空業界の創始者でもあります。
また、オートバイに移行するまでは、自転車競技選手や自転車ショップの経営者でした。
1904年の初め、飛行船のエンジンの製造を開始し、
1908年にはノバスコシア州ベイン・バリーでアレクサンダー・グラハム・ベルによって設立された、
航空機を造るための研究グループ「アエリアル・エクスペリメント・アソシエーション(AEA)」に
カーチスも参加しました。

カーチスは北アメリカで、公式での初飛行を成功させ、
フランスで開催された世界初の国際飛行大会で優勝し、
アメリカ合衆国でも長距離飛行で成功を収めました。
そして、飛行機の設計や製造を行なうカーチス・エアロプレーン&モーター社を設立しました。
現在は、カーチス・ライト・コーポレーションの一部となっています。
なお、この会社では、アメリカ陸軍や海軍で使用する飛行機を製造し、
第一次世界大戦が始まるまでの数年間で海軍航空隊で使用する水上機の実験を進めました。
カーチスの民間用と軍隊用の飛行機は戦争間や第二次世界大戦の時代において他を圧倒するものでした。



1907年グレン・カーチスが
V8オートバイに乗っている様子


学校を卒業後、カーチスは電信会社に就職し、
その後コダック社に勤めました。
そして、機械学の面白さやスピードへの情熱を持つようになり、
自転車ショップを開店しました。
彼は、地元や州で開催される自転車のレースで多くの賞を獲得します。
オートバイでのレースも可能になると、オートバイでもレースをするようになりました。
また、カーチスは、1902年にエンジンの製造を開始し、
その後オートバイを完成させ、お店で製造、販売を始めました。
そして彼自身もオートバイのライダーとして有名になり、
自分で設計した8気筒サイクルエンジンを搭載したオートバイで、
1906年に137mph(220km/h)のスピードを記録しました。
この記録は20年間破られることはありませんでした。


気球操縦者トーマス・スコット・ボールドウィンは気球に使用するエンジンを
カーチスに注文し、カーチスは飛行の分野に注力しました。
カーチスのエンジンを搭載した気球は、1904年セントルイス万国博覧会の主要な競技大会で優勝しました。
ボールドウィンはハモンドボートに移住し、二人でアメリカ陸軍が初めて採用した飛行船を製作しました。



1908年6月4日グレン・カーチスが複合機に乗っている様子
1903年にライト兄弟が成功させた飛行は、重航空機の可能性を実証し、
カーチスはこの重航空機の開発を進めました。
また、電話機を発明したスコットランド人である、
アレクサンダー・グラハム・ベルは飛行機開発の強力な支持者であり、
1907年にハモンドボートでカーチスは実験の責任者として、
アエリアル・エクスペリメント・アソシエーションを設立しました。
その1年後、カーチスは有名なJune Bug号で
「Scientific American」賞を獲得しました。
その後の数年間でも、国内外のエアレースでたくさんの賞を勝ち取りました。
そして全国を巡業し、飛行に対する考えを一般化させ、憧れのものにしました。
また、彼は知名度を活かして数々の飛行学校を創立しました。

1908年カーチスは水上機の開発に取り掛かり、その3年後、
カリフォルニアのサンディエゴの水辺で離陸と着陸に成功しました。
1912年、彼はアメリカ海軍のカーチスNC4飛行艇を開発し、1919年には大西洋を横断した初めての飛行機となりました。

第一次世界大戦が始まると、カーチスは工場をバッファローに移し、1919年には5.000機以上を製造しました。
彼は、裕福になりましたが、この数年間はベルの会社のために開発した補助翼の発明についてライト兄弟と裁判で争っていました。

第一次大戦後、カーチスは飛行機と同様に自動車や他の車両の開発に取り組み、
カーチス・ライト・コーポレーションでも活発に開発を行ないましたが、
彼の航空産業においてのパイオニアとしての終止符は1920年に打たれました。


The War Thunder Team