海軍の歴史の断片 パート1

海戦の簡単な歴史をご紹介しております。
海軍のクローズドβへと繋がる短編集をご覧ください。

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OPERATIONS GUN and NEWT
フェアマイルD型、ヒギンズ78フィート型、LCG。John Moore著

1944年初旬、イタリアを離れたドイツの沿岸部隊は連合国が
「F-lighter」と呼ぶ重武装の将官艇を護衛艦として利用していました。
88mm FlaKを含む機関砲を装備した「F-lighter」は恐ろしい敵であり、
喫水が浅いため、魚雷で狙うには難しい標的となっていました。
この脅威に反撃するため、イギリス海軍志願予備員の指揮官であった
ロバート・アランは小規模の戦闘艦隊を招集しました。
彼の「戦艦」は4.7インチ砲を運搬できるように
改良された戦車揚陸艦である砲艇型支援揚陸艇 (LCG)でした。
護衛艦は英米のものでした。
「ドッグ・ボート」(フェアマイル「D型」機動砲艇と高速魚雷艇)の
選別部隊と優秀なレーダーを哨戒と統制に使用する魚雷艇です。

1944年3月、アランは自身の艦隊を率いて、2隻の駆逐艦が護衛する
F-lighter6隻からなる部隊を攻撃するOperation Gunでの戦闘に出撃しました。
魚雷艇が駆逐艦を撃退したことで、LCGはF-lighterと交戦することができるようになり、全6隻を余すことなく沈めました。
翌月、アランの艦隊はOperation Newtで再び出撃しました。
ここでは、敵艦の複数の戦闘団と遭遇することとなり、F-lighter 5隻と曳船1隻を沈めています。
「敵の沿岸部隊をイタリア西岸から離れさせることに成功した勇敢さ、決断力、そして軽装備部隊での手腕」を称えて、
アランには殊勲章が授与されました。

出典:

「At Close Quarters - PT Boats in the United States Navy」(Captain Robert J. Bulkley, Jr.著)
「With Utmost Spirit: Allied Naval Operations in the Mediterranean, 1942-1945」(Barbara Tomblin著)




スターリングラードの川から放たれるカチューシャ砲

第二次世界大戦時、
スターリングラードはヴォルガ川に面した主要港でした。
ドイツ軍による侵略から1ヶ月が経過した1941年7月、
ヴォルガ川での戦闘に向けた艦隊の軍人を訓練のため、
ヴォルガ川の沿岸にソ連の専門部隊が形成されました。
この部隊は、10月にはヴォルガ川海軍艦隊へと姿を変えました。
当時、その艦隊は砲艦7隻、装甲艦15隻、掃海艇20隻以上、
浮き砲台2隻という様々な船舶を取り揃えて形成されていました。

1942年には前線がヴォルガ川へと近づき、
その川の主要な内陸水路としての戦略的役割は
どちらにとっても不可欠なものでした。


ソ連側はヴォルガの船舶を守るため、絶えず改良と革新を考案し、
その結果、すべての問題点を克服し、装甲艦には戦車の砲塔が装備されました。
船が初めてロケット迫撃砲を採用したのはスターリングラードの戦いでした。
小さく軽い、新しい型が製造されると、ロケット迫撃砲は装甲艦にも搭載されました。
こうして、スターリングラードの戦いでヴォルガ川に世界的に有名なロケット砲「カチューシャ」が登場したのです。

ヴォルガ川海軍艦隊の英雄的な行動は間違いなくスターリングラードの戦いにおける最も輝かしい功績だといえるでしょう。
ソ連軍は大きな損害を被りましたが、地上ではもちろんヴォルガ川上でも、ドイツの戦争機械に大打撃を与えました。



一大事
PT-167、エルコ80フィート型。John Moore著

1943年11月、目のくらむような「ゼブラストライプ」の
カモフラージュに身を包んだPT-167はトレジャリー諸島に向かう
1対の上陸用舟艇の護衛にあたっていました。
その夕暮れ時、日本の雷撃機、B5N「ケイト」の部隊が
護衛艦隊を捉え、攻撃を仕掛けるため飛び込んできました。
船を大型船と勘違いしていたのか、彼らは最初に現れた爆撃機が
PT-167の無線アンテナをもぎ取ってしまうほどの近距離から
魚雷を放ち、それが海に衝突すると同時に、
船員は激しい揺れを感じました。
射撃手が射撃を開始し、爆撃機が上陸用舟艇を攻撃する一方で、
それとは別の航空機に弾丸を命中させ、
自らが水しぶきでびしょ濡れになってしまうほど近くで墜落させました。

航空機を撃退すると、PT-167の艦長は自身の船を綿密に調査し、揺れの原因を探り出しました。
魚雷が船首を粉々にし、「便座」だけを避ける形で船にきれいな穴を開けていたのです。
上陸用舟艇 LCI-90も攻撃を受けており、爆発し損ねた魚雷が、機関室に無理やり押し込まれる形で貫通していました。
PT-167は乗組員を降ろし、LCI-90は曳航されて港に戻り、どちらの船も修理され、すぐに戦闘に復帰することができたようです。
翌日の日本の無線報告では、2隻の航空母艦が沈没したと報告され、少し的外れな報告となりました。

出典:
「At Close Quarters - PT Boats in the United States Navy」(Captain Robert J. Bulkley, Jr.著)
フォーラムの魚雷艇に関するスレッド:
PT 167 (船体が損傷した様子を写す写真あり):
LCI 90 (乗組員が不発の魚雷とともに写る写真あり)



大日本帝国の巻き返し

大日本帝国海軍はアメリカで魚雷艇の数が増加し始めるまで、
魚雷艇には大して興味を持っていませんでした。
哨戒艦艇は大日本帝国海軍が決戦に挑む際の戦争形態において
当初の役割を果たしておらず、戦略計画のなかでも日本の汀線や
征服した領域を守ることは重要視されていなかったのです。
日本軍はこの素早い小さな船に何ができるのか気付き、
ようやく魚雷艇の大量生産事業を開始しました。

日本の魚雷艇に関する歴史はそう多くはありませんが、
行動の断片は過去の戦争に根強く残っていました。
1944年9月2日、のちの大統領であるジョージ・H・W・ブッシュ中尉のTBM アベンジャーがボニン諸島の父島で打ち落とされたとき、
日本の哨戒艦艇は必死に彼を探し出そうとしていました。
ですが、彼とともに飛行していた別のアベンジャーが、ブッシュを引き上げるため浮上した潜水艦「フィンバック」によって
救出が行われるまで砲撃を続け、日本の哨戒艦艇を撃退しました。



ビゼルト港に入った最初の船
PT-202、PT-204、PT-205(ヒギンズ78フィート型)。
John Moore著


魚雷艇の乗組員が警戒しなくてはならないのは敵だけではありませんでした。
1943年5月、PT-202、PT-204、PT-205がイギリスの2隻の駆逐艦、
HMS ラマートンとHMS ウィルトンに遭遇したとき、
彼らは北アフリカの沿岸を偵察していました。

それと同時にドイツのEボートは
魚雷艇とEボートの両方に射撃を始めた駆逐艦と交戦していました。
PT-202に搭乗していたDuBose中尉は、大混乱のなか、
駆逐艦の乗組員に警告しようと緊急事態を知らせる照明弾を放ちましたが、
それは曳光弾の炎に溶け込んでしまいました。
魚雷艇は道すがらEボートを攻撃しながら、煙の中を撤退しましたが、
逃れるまで約1時間ものあいだ、気迫のこもったラマートンに追跡されていました。

燃料が切れ、PT-205に搭乗していたO'Brien中尉は
つい最近地上部隊が占領したばかりのビゼルト港に入ることを決断しました。
次の朝、O'Brienは写真家がビゼルトに上陸する「最初の」連合国の船である
上陸用舟艇をはっきりと写真に収めることができるよう、
船を動かすように言われ、非常に悔しい思いをしました。

出典:
「History of United States Naval Operations in World War II: Operations in North African Waters, October 1942-June 1943」(Samuel Eliot Morison著)

「At Close Quarters - PT Boats in the United States Navy」(Captain Robert J. Bulkley, Jr.著)
写真(アメリカ国立公文書記録管理局より) 「Bizerte Harbour. These ships were the first to enter Bizerte in May of 1943. Tunisia.」
アメリカ海軍(NavSourceより)




The War Thunder Team