坂井三郎さんのインタビュー

貴方はエースパイロットやエンジニア、そして歴史的な人物についてどのくらい知っていますか。
一般的に私たちの知識は、インターネット上の百科事典やゲーム内のお知らせなど、限られた情報によるものです。
戦後から時が経ち、重要な発見はとても難しく、今回のような戦争体験者からのお話は全てが貴重なものです。
「War Thunder」の一部のプレイヤー達がこの記事を皆様へ共有することを決めました。
私たちは非常にそのことに感謝しており、みなさんも同じように思っていただけたら幸いです。



こちらでは管理者からの提案で、伝説的な日本のエースパイロットであった坂井三郎さんとの、個人的な会談についてご紹介したいと思います。
この会談では、様々な点において驚きがあり、正直に申し上げると、
第二次大戦の日本の歴史についてもそこまで深く調査しておらず、彼についてもお話しするまでほとんど知りませんでした。
一般的な知識で満足しており、軍事医学において特殊なケースとなる、
大口径の機関銃を頭にうけても生き延びた、日本のパイロットということが私の知っている彼の全てでした。
しかしながら、その情報も「軍内部的な伝説」として知っていただけであり、その日本人パイロットの名前も詳細な話も知りませんでした。

その当時の私は、元ソ連の工兵で「公認の飛行クラブのメンバー」であったため、大祖国戦争の航空業界の話のほうがはるかに興味があり、
「Pokryshkin」や「Vorozheykin」、航空機設計者Yakovlevなどの、多数の回顧録を読んでいたため、
太平洋戦域の出来事については興味がありませんでした。
1997年3月に弾丸を受けても生還した日本のパイロットと、対面を果たすなど誰が想像できたでしょうか。

私が日本で行なったことや坂井三郎さんとの対談をするにいたった経緯など、
忘れられない詳細に書くことも可能ですが、それについては話が長くなるのでまた別の機会に書くこととします。
今回言えることは、ある晴れた日に、日本人の同僚からの勧めで、
日本のエースパイロットの講演が行なわれる、岡山の飛行クラブでの小会議に出席しました。
その頃には、昔と違い日本のことをよく知っており、失礼ながら会議はとても退屈な時間になるだろうと考えていましたが、
会議が始まると私の考えが間違いであったことを痛感しました。
その会議の後、日本の航空にまつわる歴史についてとても興味が増し、
講演をされた『坂井三郎さん』が話したことを完璧に理解するため、様々な資料を調べました。
坂井三郎さんがその会議で話したことを、一言一句全てを再現できないため、
記憶による要約のようなもので、私自身のコメントも交えたストーリーとなります。




まず初めに、坂井三郎さんは80歳にもかかわらず、「若者」という印象を受けました。
彼は元気で、活気に満ちており、愛想がよく、とても前向きで、それらの性格はひとつも作られたものには見えず、とても自然でした。
彼は興味深く聴衆を見渡し、私たちが外国人であると認識すると、どこの国から来たのかを尋ねて個別に挨拶をしてくれました。
私たちがロシア出身であることを知ると、いつも私たちが言われ慣れている「とても寒いところですね」とは言わず、
「航空宇宙科学のリーダーとして名高い国の方々にお会いできて光栄です」と言ってくださいました。
そして、「グロモフ航空研究所を訪ねてみたい」とも付け加えられ、その瞬間は私にとって、とても印象深いものでした。
私は彼のことを、少なくとも平凡な男ではないとすぐに理解しました。
聴衆は質問するのを躊躇っていたため、坂井三郎さんは彼自身のことを話し始めました。
すぐに答えられるような一般的な質問に答えるよりも、質問を待つことなく話すことが彼にとって一番だったのでしょう。
これはとても珍しく、日本では前もって誰がどの質問をするのか、順番を決めておくことが会議に参加する際の慣例となっていました。
私たちにはその質問の機会が与えられず、言ってみれば、坂井さんが先導する展開により、私たちは困難な状況から脱出したのです。
目の前を妨げられるときは、社会の決まりごとを大胆に破る。
それが彼を普通の人ではないと考えさせられた2度目の瞬間であり、日本人ではあまり見ることのない人柄だと感じました。

坂井三郎さんは、彼が16歳のときに海軍に入隊した理由について話し始めました。
その理由ついては彼の自叙伝で明らかにされていますが、本当の根本的な選択の理由はそんなに簡単ではありませんでした。

話の冒頭に「事実はあなたが決めることを忘れないでください!」と坂井さんは言いました。
大正時代初期から昭和時代の初め、官庁に入りたくとも、お金持ちか影響力のある親族がいないと入ることは困難でした、
その当時の日本の主要な官庁は、「軍需省」、「陸軍省」、「海軍省」の3つがありました。
これら3つの「省」は、権力と支配力を得るために激しい戦いを繰り広げました。
軍需省は教育を必要条件とし、勉学において良い成績を収めている必要がありましたが、私はそうではありませんでした。
陸軍は氏族的な考えで究極の国家主義であり、陸軍の司令部は知性というよりも、
支配力を得る手段として、非常識な攻撃を行なっていました。
その当時はこの事について声に出す者はいませんでしたが、誰でも陸軍省が暴動を支援していたことは知っていました。
また、陸軍は日本が執っていた強行路線を主張する政治家や公人の暗殺の試みを行なっていました。
人々が日本の軍国主義やその思想について話すときは陸軍のことも言及していました。
陸軍の司令部は40年代の初めには日本での権力を完全に掌握し、
一歩も退くことなく、太平洋での西洋諸国との戦争の主唱者となっていったのです。
これは陸軍が犯した最悪な罪であり、日本はまだこの日の罪の代償を支払い続けています。
日本軍「第3軍」と政治的に同じ思想によりこのようなことが続いていたため、魅力的な将来性がある海軍を選択しました。
海軍の指導者は知的な集団においてとても評判で、自由主義者がはるかに多く、
国際政治の見解もあまり攻撃的ではありませんでした。
ゆえに、より良い教育を受けた若者は、海軍に入隊しようと努力しましたが、
海軍だからといって、新兵の生活が楽になることありませんでした。


-KREBS- Snoll.
Written specially for warthunder.ru

※フルインタビューの内容は後日追記掲載予定となります。