海戦の歴史 パート2:航海の黄金期

人類史上、歴史が技術的、そして政治的に大きな進歩を遂げた期間と言うのは大きく3つに分ける事が出来ます。
歴史初期、黄金期、そして現代の3つです。
前回の記事では、古代の世界で海戦の於ける技術がどのように発展したかについてお話致しました。
今回のこのパート2では、航海の黄金期、すなわち「大航海時代」と呼ばれる2つ目の重要な期間についてお話し致します。

海戦の歴史 パート1



「レパントの海戦」(1571年10月7日)
オスマン帝国海軍(現在のトルコ)と、
教皇・スペイン・ヴェネツィアの連合海軍による海戦
大航海時代の幕開けには諸説有りますが、船による国際貿易や海を越えた移住が
盛んになり始めた西暦1500年代後期とする説が最も有力でしょう。
海を制す事が国家の繁栄に繋がると判断した国々が帆船を量産し始めると、
人力でオールを漕ぐ形式のガレー船は次第に姿を消して行きました。
この、国家の「繁栄と発展」への新たな可能性の鍵となったのは、
それぞれの海軍が国の国境付近だけでなく、
その当時存在が確認出来ていた別の国々へ行く為に発見したばかりの航路や
頻繁に通っていた航路を護る事でした。

ガレー船が参戦した大きな規模の海戦は、1571年の「レパントの海戦」が最後でした。
これは指揮官ドン・フアン率いるヨーロッパの神聖同盟であるカトリック教国の
連合艦隊と、ギリシャの強大なオスマン帝国海軍が決戦に挑んだものです。
大規模なガレー船艦隊の参戦したこの海戦は、それから何百年と続く事になるヨーロッパの地中海支配、
及び世界を股にかけた経済発展と植民地化の始まりを告げる物でした。

ノバスコシア州ハリファックスの港での
ジョン・クライムス中尉率いる国王陛下の
ブリッグ監視船と
アメリカの私掠船ジャックの対戦の模様
この時代になると、多くの国が貿易・戦争両用に船を量産し始めました。
それまでは造船と言えば沿岸を航行する大型船を作る事が一般的でした。
ヨーロッパ諸国の人々は、大きな危険を伴う外洋上の開放水域を横断し、
世界を探検して回りました。
こう言った世の中の動きの引き金になったのは、
航海の歴史初期に設計されたタイプの船だけでは無く、
新たに登場した私掠船の存在でした。
この大航海時代初期、探検と発見の時代には、世界で最も大きい3つの国々と
彼らの同盟国がこぞって新たな大地や材木、黄金を探し、資源の発見を競い合いました。
貿易ルートも次第に拡がって行き、海上警備も厳重なものになって行きました。
東はトルコ、中国、インドまでもと続くこの航路の船旅による貿易は
莫大な富と資源をもたらすもので、1602年に設立された貿易会社、
連合東インド会社もその恩恵を受けた企業の一つでした。

1600年代から1700代初期に渡り、多くの国々は私掠船(海賊)を利用し、
外洋上で敵諸国の貨物船を襲わせました。
しかし、本家の海賊と私掠船には大きな違いが有りました。
それは、私掠船は各国毎認可された船長を乗せており、敵国の船に対する海賊行為が国に認められた船であったと言う事でした。
殆どの国では私掠船は海軍予備役の様に捉えられており、ロイヤル・マストの帆を与えられていたり、
サー・フランシス・ドレークの様に乗組員が罪を犯しても無罪放免になったりと言う事も決して稀ではありませんでした。
そんな中、多くの国々は主に2つの船の構造を元に造船作業を進めて行きました。
その1つ目は装甲装備をした船の初期のタイプを産み出したガレー船のコンセプトで、その重量とサイズの為航海速力は遅い物も多々有りました。
2つ目のデザインコンセプトと言うのは戦列艦、若しくは軍艦で、防衛力よりも射撃能力と操縦性を高めた設計になっている物でした。
この2種類の船の構造が出来上がったお陰で、海軍戦略にも多様性が産まれました。
全てに於いて万能な船を作成するより、得意とする分野に適応する船を作れば良い事に気が付いたのです。
例えば運搬船(または護衛船)には防衛力の高い船を、敵船攻撃用には射撃能力の高い船を、と言った具合です。
海賊は数隻の小型攻撃船で奇襲攻撃をするのが得意で、海軍の船との長期にわたる銃撃戦でも伝説的な勝利を収めました。

重巡洋艦ケントと
フランス人提督ロベール・シュルクーフ率いる
私掠船の戦いの模様
鄭一嫂と言う名の女性は、あの黒ひげでも恐れをなす女海賊だったと言うどころか、
世界で最も成功し恐れられていた海賊でした。
鄭一と結婚し海賊となった鄭一嫂は彼女自身の海賊団を引率れ、
主に南シナ海付近で連合東インド会社の商船や客船を襲い、恐れられていました。
夫である鄭一と言う人も、紅旗?と言う海賊団の長として既に有名な人でした。
ともあれ、彼女の海賊団には1500隻以上の艦隊に
180000人の乗組員を動員する巨大な規模の物でした。
これらの艦隊を形成していた物の殆どは、当時人気の有ったジャンク船と呼ばれる
中国の小型木造帆船でした。
また、彼女は海賊業で手にした財宝を何一つ失わずに海賊を引退すると言う、
世界史上でもかなり希少な成功者の一人でした。

ジャック・ラッカム船長は、「キャラコ・ジャック」とも呼ばれていた
イギリス人の海賊でした。
彼は、史上最大の海賊の一人ではありませんでした。
彼が襲うのはもっぱら彼の船より小さい船で、その時代に名を馳せていた海賊達の様に
大航海には出ず、活動範囲もカリブ海に留まっていました。
とは言え、彼はこれまで存在した海賊のなかでも勇敢で最も大胆不敵な一人だったと言えます。
航海の黄金期と言うのは、海賊行為の黄金時代でもありました。

彼の海賊が行なった最も在り得ない行為の内の1つは、 夜が明けて満潮時にキャラコ・ジャックと決戦をするつもりで船で待っていた
スペイン海軍の乗組員の目を盗み、夜の間にその船から捕獲されたイギリスの小型快速のスループを盗み出すと言う事でした。
スペイン海軍の船は干潮時には固定されていた為、ラッカムの思惑通りにまんまと盗みを働かれてしまうのでした。

ある言い伝えによると、 彼はその後の海賊仲間達とスペイン船襲撃を祝い、酒に酔っているところを引っ捕らえられ、判決を受けた後、
絞首刑にて処刑されてしまったそうです。
彼の元に居た乗組員の内の2人の女性、アン・ボニーとメアリ・リードも海賊史に伝説を残しています。
ラッカムと同様に捕まった彼女達でしたが、2人とも妊娠中だと主張した為、
当時の中絶を忌避する慣習に基づき、出産が済むまで刑の執行が延期される運びとなったのです。
(結局刑執行の記録は残っていない)そんなラッカムでしたが、彼はこの時代を生き抜いた証をしっかり痕跡として残しています。
そう、あの今日でも有名な「ジョン・ラカムの海賊旗」です。

トラファルガーの海戦
(クラークソン スタンフィールド画)
1700年代半ばから1850年頃に造船された船には、
よりバラエティに富んだ設計が施されました。
この頃になると、2つの平行する流派が頭角を現し始めていました。
ある国が膨大な数の艦隊が最も強いと考えると、
別の観点を持つ国では「頑丈さは数に勝る」と言う理念の下、
船の大きさよりも技術面を開発し始めると言った具合でした。
英国などでは、船体に銅を裏張りするハル塗装が施される一方で、
建国後間も無いアメリカでは船体に複合構造が成されていました。
またある国では、海岸や船舶からの大砲攻撃から身を守る為に
世界で初めて船体に鉄板が使用され、それと共にその鉄の装甲に穴を開けるべく、
攻撃する側の大砲の技術も急速に進歩しました。
この、船の装甲強化と火力強化の競争は、結果的に大航海時代初期に信じられていた
「最も大きい大砲を持つ船が海戦を制す」と言う設計哲学の崩壊に繋がりました。
何故なら、スループ、コルベット艦 、フリゲート艦などどちらかと言えば小型の船の方が、
古いガレー船などよりよっぽど海戦に望ましい物になっていたからです。
ある船は射撃攻撃に於ける艦隊の母港として設計され、またそれより更に小さく設計された船はより操縦性も良く、
主に艦船攻撃用として編成に組み込まれ大活躍しました。

これは、革命と反乱を伴う世界的な紛争の幕開けであり、やがて世の中は大規模な征服戦争を伴うナポレオン時代へと突入して行くのでした。
また、トラファルガーの海戦などの伝説の海戦もこの時期に勃発しました。
歴史に於けるこの期間は、世界情勢が自然と海軍の役割を浮き彫りにしていった時代とも言えるでしょう。
それまでは、戦争時の海軍は基本的に対艦任務、若しくは敵の艦隊に対する海上封鎖任務を任されていました。
しかし、人々が「海を制す事が各地に配備された軍隊に充分な供給をもたらす」と言う事に気付くと、
海軍は全体的により重大な役割を任される様になったのです。
戦士達や装備などをごくまれに船で運ぶ程度だったのが、やがては河川警備や海上侵略などの多くの重要な任務へと駆り出される様になり、
海軍の戦士達はより特殊な軍艦に乗り込んで、意気揚々と海に向かって行くのでした。

Clayton RemyAston Peters