海軍の歴史の断片 パート2

海戦の簡単な歴史をご紹介しております。
海軍のクローズドβへと繋がる短編集をご覧ください。

海戦の歴史 - パート 1 - パート 2 - パート 3
海軍の歴史の断片 - パート 1



Attack Single
イギリスの71.6フィート型機動砲艇。John Moore著

イギリス海軍は、ブリティッシュ・パワー・ボート社によって
製造された、少数の高速対潜艇とともに戦争を開始しました。
しかし、フランスの崩壊後は沿岸の対潜任務はほとんど必要なくなり、
占領地域を拠点としていたEボートはより大きな脅威となりました。
そのため、対潜艇はEボートと交戦するための機動砲艇として
再配属されることとなったのですが、
初期の段階で、武装が主要な問題として浮上しました。
ロバート・ヒッケンズ少佐の指揮下にあった第6機動艦隊の船で、
20mm砲を装備していたのは3隻のみでした。
他の船は、ボールトンポール社の旋回銃座に搭載されたこともある
.303機関銃以上の装備は持っていませんでした。
(.303機関銃は元々海軍向けの設計ではなかったため、
 かわいそうなことに射撃手は電気系統を保護するため
 防水テープで覆われた銃座に閉じ込められる形となっていました)


武装は徐々に改良されていき、ヒッケンズ少佐は新しい71.6フィートの船と共に第8機動艦隊へ異動することとなりました。
その船は以前よりもやや大きく、武装が強化されており、
対Eボート用として前部に2ポンドポンポン砲、後部に20mm機関砲1対を搭載していました。
しかし、より大きな標的を狙うには理想的とは言いがたいもので、ヒッケンズ少佐は軽量の魚雷を運ぶために自身のボートを走らせました。
また、それと同時に、対潜艇時代の重装備である爆雷も1基備えていました。
爆雷で船を攻撃するのは、爆破の影響から逃れるため標的のすぐそばを高速で通り抜けねばならない危険な任務です。
しかし、機動砲艇の勇気あるキャプテン達は、それを恐れることはありませんでした。


1942年10月、第8機動艦隊の機動砲艇4隻は、ドイツのトロール船4隻を相手に「Attack Single」を実行しました。
「Attack Single」とは、機動砲艇3隻が片側からトロール船に銃撃を行い、
反対側から爆雷攻撃を行う4隻目の機動砲艇から注意を逸らすという作戦でした。
機動砲艇78を操縦していたジョージ・ダンカンは爆雷を投下し、トロール船1隻を沈没させました。
しかし、トロール船からの反撃により、ダンカンは命を落としてしまいました。
さらに、機動砲艇78は砂州へ乗り上げ、他の船員達は機動砲艇78から離れることを余儀なくされ、
その後残りの船員達も捕らえられてしまいました。
1943年7月に機動砲艇は魚雷を搭載できるようになりましたが、ヒッケンズ少佐は同年4月の戦闘で殺害されており、
その活躍を見ることはありませんでした。


参考:

「Gunboat Command: The Biography of Lieutenant Commander Robert Hichens」(Anthony Hichens著)​




炎の如く燃える虎
S-100型Eボート S-130。John Moore著

連合軍はノルマンディー上陸に備えて、イギリスのスタート湾と
その隣のトー湾に面するスラプトン・サンズで空挺強襲部隊の
上陸訓練を実施していました。
訓練の通り、上陸用舟艇は海岸に向けて徐々に前進し、
連合軍の船を確認したドイツの第5艦隊と
第9艦隊のシュネルボート9隻はシェルブールを離れてライム湾に入り、
36ノットで連合軍に向かってに突進していきました。
シュネルボートは攻撃隊形を取り、無力な戦車揚陸艦と交戦し、
さらに大きな戦車揚陸艦に向かう途中でどうにか「油送船」を破壊し、
さらに、魚雷を使って掃海艇と戦いそのうち1つが船に命中させ、
連合軍に損害を与えました。



全長120メートルの戦車揚陸艦に到達すると、ドイツ軍の戦闘艇は広範囲に及ぶ大混乱をもたらしました。
戦車揚陸艦の一部が互いに発砲し、その結果、魚雷、砲撃、味方の発砲が合わさって、揚陸艦6隻が沈没、または動作不能となりました。
この出来事は連合国のD-デイ立案者を悩ませました。
士気に大きく影響し、「operation tiger」での損失はD-デイまで算出されないほどでした。
この損失はD-デイにノルマンディー上陸作戦での損失の合計に加算されました。


S-100型であるシュネルボート S-130は並外れた経歴を持っています。
1943年、S-130は戦争におけるSボートの最も注目すべき戦闘の1つである「Exercise Tiger」での攻撃を命じられました。
揚陸艦部隊がアメリカの兵員と車両をユタ・ビーチの代わりにスラプトン・サンズへと運んでいましたが、
部隊はドイツ空軍の偵察に気付かれてしまいました。
そしてKorvettenkapitän Bernd Klugの指揮下にあった、S-130とその他8隻のSボートが攻撃のために派遣されました。
Sボートは夜闇で防衛網を回避しながら、部隊を発見し、魚雷を発射しようと近づきました。
揚陸艦2隻を沈め、その他の船にも損傷を与えて、その結果生じた混乱からうまく逃げおおせました。
6月にユタ・ビーチが攻撃を受けた結果生じた死者の4倍にのぼる、639名の兵士と船員が命を落としました。


同盟軍が道すがら沿岸の標的を襲撃しながら前進していたため、S-130は東に撤退し、戦争を生き抜きました。
ドイツが降伏すると、S-130はイギリス海軍が試験の目的で採用したSボートの1隻となりました。
その後、この船はドイツに戻り、「英国バルト海水産業保護サービス」の任務に就きました。
これはソ連艦隊の機密情報を収集するためMI6によって構成される覆面組織で、諜報員をバルト三国に潜り込ませるものです。
1956年にドイツ連邦海軍は刷新され、1957年にはS-130は高速の訓練艦としてドイツの任務に戻りました。
ようやく引退することとなったのは48年以上が経過した1991年のことです。
2009年にKevin Wheatcroftがしばらくの間ハウスボートとして利用されていたS-130を購入しました。
そして現在では、この船を1943年当初の状態に復元する作業が行われています。


参考:

British Military Powerboat TeamのHP
BBCニュース




炎の戦車
フェアマイルD型。Mark Barber著

1942年3月28日の夜、第二次世界大戦を通してみても
最も勇気のある奇襲攻撃が行われました。
チャリオット作戦です。
フランス西岸のサン=ナゼールは悪名高いティルピッツのような
巨大な戦艦を含むドイツの全軍艦が入ることができたため、
イギリスの連合作戦司令部はその乾ドックを狙いました。
老朽化した駆逐艦 HMS キャンベルタウンはサン=ナゼールの
ドック門に突撃しようと爆薬とイギリスの奇襲部隊を乗せて
夜間にイギリス海峡を横断しました。
そのドッグ門は搭載された爆薬によって
後に破壊されることとなります。
犠牲となる駆逐艦には小さな船が何隻か同伴していました。
そのなかの1つがフェアマイルD型魚雷艇 MGB 314です。


MGB 314はチャリオット作戦全体で旗艦としての役目を全うする予定でしたが、
サン=ナゼールに到達して帰還するには燃料が足りなかったため、最初は軍の駆逐艦の1隻に曳航されていました。
奇襲部隊が標的に近づくと、MGB 314が指揮を執り、軍の前に進み出ました。
真夜中を少し過ぎた頃、ドイツの防御施設に近づいたイギリスの船は信号灯で身分証明を求められました。
MGB 314は応答しましたが、策略がうまくいったのは短い間だけでした。
数分のうちに、部隊は港にある全ての武器から砲撃を受けることとなりました。
イギリス軍が港に近づく間、MGB 314はドイツの沿岸地点と船に絶え間なく発砲を続けました。
奇襲部隊が海岸を一掃し、ドイツの防衛隊と激しい戦闘を行うなか、キャンベルタウンは任務を成し遂げ、ドック門を突き破りました。
MGB 314は側へ行き、イギリスの奇襲部隊の司令官である、Newman中佐は岸を飛び越え、兵員を戦闘に導きました。
その頃、上級の海軍士官であったCdr Ryderも浜に進み、キャンベルタウンがドッグ門で安全に定位置に収まったことを確認しました。
その後彼は沿岸の砲座と戦いつつ、負傷した船員と奇襲部隊員の回収にあたっていたMGB 314へ戻りました。


奇襲の成功に際して、 MGB 314は激しい砲撃のなかを撤退し生き残った船の1隻となりました。
しかし、MGB 314はひどく損傷していたため、後に沈没させられることとなりました。
正午頃、放棄された敵艦を調査していたドイツの上級士官40名ほどを乗せ、
爆薬を搭載したキャンベルタウンが極めて重要なドッグ門を爆破しました。
Cdr Ryderはその奇襲で担った役割を認められ、ビクトリア十字勲章が贈られた1人です。
MGB 314の甲板で砲手を務めていたAble Seaman William Savageにも勲章が贈られました。
撤退中、彼の正確な砲撃はドイツの砲座を鎮圧しましたが、任地で命を落としてしまいました。




砲火の下の救出

1942年9月10日、イギリス海岸を離れたEボートは
多忙な一夜を過ごすこととなりました。
イギリス空軍のHorn少尉(殊勲十字章受賞)率いる3隻の
70フィート型機動砲艇が撤退するEボート部隊の1つを迎撃しました。
機動砲艇は北海を渡り東に向ってEボートを追跡し、
その道程で非常に長い戦いが繰り広げられました。


空が明るくなり始める頃には、Hornの機動砲艇は戦闘で損傷を
負ったことで速度が落ちていたため、獲物を見失ってしまいました。
彼らが接触しそうになった地点はどうやらEボートの集合場所であり、
他にも2つのドイツ軍部隊が仲間に加わっていました。
日中、イギリスの船は自国がフェアマイル4隻であるのに対して、
残り9隻とみられる敵のシュネルボートを発見しました。
再び戦闘が始まり、エンジンルームに損傷を負ったイギリスの船の1隻は動かなくなり、燃えてしまいました。
敵も大きな損傷を負ったようではありましたが、イギリスの船はさらに2隻が攻撃を受けました。
別のEボート部隊も戦闘に参加してきました。
故障してもなおドイツ軍に反撃する機動砲艇の周囲を約12隻のEボートが半円を描いて囲んでいたため、
敵は400か500ヤード離れた場所にとどまっていましたが、損耗人員は増えていました。
このとき、連合軍の船の1隻が救助を決断しました。
船は白昼堂々と12隻のEボートから500メートルも離れない場所で砲火浴びながら、機能を停止した燃える船に横付けになり、
生存者のほとんどを移送しました。
2名の搭乗員だけは無線室で炎に捕らえられていました。
救助船の指揮官であるソープには彼の船の勇敢な試みに対して殊勲章が授与されました。


With thanks to - World War Two - The War at Sea




1943年7月21日 - アゾフ海での小戦闘

第二次世界大戦末期のクリミア半島でドイツ、イタリア、ルーマニアの海軍に
対抗して巧みに利用されたソ連の1124型砲艦は大きな影響をもたらしました。


ドイツ軍はPrimorsko Akhtari(アゾフ海)での奇襲に
何度も失敗していました。
砲艦 Marine Artillerie Leichter(MAL)による沿岸砲撃では
ほとんどダメージを与えることができなかったのです。
1943年7月21日、ドイツ軍は成果を挙げようと
補助の掃海艇 R-166とともに砲艦 MAL-8とMAL-11を派遣しました。
しかし、ソ連軍は万全の体制を整えていました。
まず初めに小型掃海艇であるN179で敵の進攻を遅らせようと試み、
負傷した搭乗員1名のみというわずかな損害を受けただけで、
装備している弾丸をうまく使い果たしました。


最終的に、ソ連は防衛網としてMO型哨戒艦艇2隻を引き連れていた
1124型砲艦3隻の部隊で反撃しました。
戦闘で1124型砲艦であるBK-112の機関砲は動作不能になってしまいましたが、
哨戒艦艇は軽い損害を受けただけでした。


1124型に搭載された76mmの主砲から放たれた砲弾が
R-166に少なくとも2発命中して多大な損害をもたらし、
3名の搭乗員が再起不能となってしまったため、ドイツ軍は再び撤退しました。
そのうえMAL-11も負傷者2名という軽度の損害を受け、
ソ連軍に勝利を譲ることとなりました。
交戦中ずっと両軍共に過剰な使用によって
機関砲が損傷することとなっていました。
この戦闘がどれほど凄まじいものであったかを考えさせられます。





The War Thunder Team